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裕古のひとり言&新着情報

大嘗祭・パート2

おはようございます。

 

昨日の続きを書きたいと思います。

 

イエスは古代イスラエル王国の大王・ダビデの子孫であり、王族であったが実家は大工を生業としていた。

聖徳太子は日本の大工の祖であること。又、聖徳太子は予言者でもあり、大陸から伝来した景教、即ちキリスト教ネストリウス派の信者であり、

イエス・キリスト伝説を付加したとされている。聖徳太子の側近は秦河勝であり、秦氏の首長であり、太秦(うずまさ)の名で呼ばれていた。

「太秦・ウズマサ」とは、「アラブ語・ヘブライ語」で「イシュ・マシャ」すなわち、「イエス・キリスト」である。

物部氏の秘密組織「八咫烏」を整えたのは聖徳太子であるという。

聖徳太子は70人の八咫烏、12人の大鳥、3人の金鴉からある組織を創りあげた。

聖徳太子は聖者でありながら天皇ではなく皇太子だった。

当時の天皇は推古天皇

女性であるがゆえに、当時の政治は聖徳太子が行っていたとする。

新たに組織された八咫烏によって聖徳太子が裏天皇となり、聖徳太子が亡きあとは金鴉が裏天皇を担う事となった。

そのころから天皇の即位、儀礼も整備されるようになった。

大嘗祭のベースは「天の岩戸開き」である。

天照大神の死と再生はイエス・キリストの死と復活である。

 

古代はいくつもの名前を持っていた。

天照大神=イエス・キリストと言う説も最もかと思われる。

 

「片岡山伝説」として知られているエピソードがある。

紀元613年、聖徳太子が奈良の片岡山に游行した際、道端で倒れている男性に出合った。やせ細っていて哀れに思った聖徳太子は

自分の食事を与えまとっていた衣服を着せていたわりの言葉をかけて去った。次の日、その男が気になり使者を使わせたところすでに亡くなっていたことを知る。

嘆き悲しんだ聖徳太子はこれも縁と考え、近くに墓を造成し,亡骸を埋葬した。

後日、フッと気になり、再び使者を。

墓は暴かれた様子はないが、何かおかしい。

念のために墓の中を覗いてみるとなんと、遺体はなく聖徳太子が与えた衣服がきちんとたたんであったという。

聖徳太子はこれはただ事ではないと衣服を持ってこさせて自ら身に着けた。

「聖者は聖者を知る」

まさしく、死と復活

イエス・キリストである。

夕方から暗い夜中に行われる意味も大嘗祭において受け継がれている。

 

この大嘗祭とは聖徳太子からのメッセージでもあるかのように時代を超えて大切に受け継がれていくものと思われる。

 

大嘗祭は死と復活の象徴

エピソードは多々あるかも知れませんが・・・・・

 

ではまた

ありがとうございます。